二、暦
文明の発達の早かった国ほど暦法も又発達が早く、中国、エジプト、インド、ギリシヤ、バビロン等、では何千年も前から暦が作られていました。
中国では中国最古の王朝であると推察されている殻代からではないかといわれています。なぜなら現在中国の遺跡で発掘されている殿時代の王朝で使用された甲骨に刻み込まれた文には、王の名や年月日が刻まれているので、当時の暦法もある程度復原されているからです。これによりますと、当時すでに太陰太陽暦が使用されていた事がうかがえます(日本でも明治以前には、太陰太陽暦を使っていました。)
太陰太陽暦は十干と十二支を組合わせて得られる六十の記号を用いて日を繰る法で、干支紀日法と言われています。各々の名称と順は次の通りです。なお、この六十干支は「六十花甲子」と呼ばれています。
殿時代に始まった干支紀日法が正式に暦の上に用いられたのは、周王朝であろうと言われています。更に、漢時代に入ると干支は日を繰るのに用いられただけではなく、年・月・日・時全てに用いられて今日に及んでいます。
一方、中国思想の根源となった陰陽説は漢代の初期に五行説と結びつきました。五行とほ木・火・土・金・水の五種類の元気が、宇宙の万物の根本的な要素となっており、天地間におけるあらゆる具象は、この五種類に属していると説いたものです。この陰陽五行説が十二支をも支配するようになり、十二支にも陰と陽が付せられました。
十干を天の気を現わすものと考え、十二支は地の気であると定義しました。次に人の気です。天と地の中間にあって地上のあらゆる生物の代表である人の気は、易の八卦図に求められました。中央に土性を配して、九気と称するようになりました。この十千・十二支・九気を分類すると左の図のようになります。
十干、十二支、九気はそれぞれ異なった回帰点を持っていますから、再び同じ時が巡って来るには気の遠くなるような時間が必要です。同じ一日年の生まれの人でも子年であるか、酉年であるか、又は甲であるか、乙であるかでその人の特質、運勢も違って来ます。
この陰陽説と五行説を結びつけ、更に九気を配した作暦法は現代もなお生き続けています。そして各個人の生まれた日の十干、十二支、そして九気が互いに相生し、相剋し合って一つの小宇宙を作り出しているのです。
なお、この太陰太陽暦では、春の節分をもってその年の始めとしています。気学では、この太陰太陽暦を基本として作盤してありますから、節分以前に生まれた人は、前年の生まれとみなされています。
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